No.∞   日々の雑感

出会い
 最近気付いたことがある。こっちに来てからというもの幾度となく自分の仕事について説明して来たし特に漆の説明ももういやというほどやってきた。なにをどれだけ汲み取ってくれてるのかは想像するしかないがカタログやファイルといったビジュアルを見せながら説明してる限りはみんな一様に(それなりに?)納得してる様子だ。ところが先日こちらの日本人に説明してると、途中で「なんで漆なんですか?」と聞かれた。そう言えば別の時にも同じように日本人から「何故?」と聞かれていたことを思い出して、翻って考えてみるとこっちの人から「何故その素材なのか?」という風に聞かれたことはないな、と。確かに日本に居た時は取材やなんかでたいてい「かぶれませんか?」の次には「何故?」と聞かれてしかもそこには「なんでわざわざかぶれてまで」「いや〜めずらしい」「他にもたくさん素材はあるのに」様の言外の無責任な興味が見えかくれしてなんとも答えにくいなと常々思っていて、そういう時には「漆がなんとも好きなんです」なんて答えてもなんの意味もないので必ずこう答える、という雛形を用意していた。

 唐突だが仮に存在を知ってはいるが普段全然馴染みのない外国人、例えばイスラエル人と結婚している人が居るとしよう。その人にどんな出会いだったんですか?と聞くことはあっても「国際結婚っていろいろ面倒なことないですか?」「イスラエル人なんてめずらしいですね」「他にもいろんな国の人がいるのになぜ」なんて聞くだろうか?大きなお世話だ。とてもじゃないけど失礼過ぎてこんな風には聞けないだろう。少なくとも僕はそうだ。その人なりの出会いがどこかであって、それを運命と言うのかも知れないが心のどこかにこの人に決めた、という完全に個人の範疇で完結する確信のようなものが結婚という形で結実しているのであってその結実している様をどうこう言っても何の意味もないと思う。

 多くの工芸作家、いやなにも工芸作家に限らずなにか創造的なことをしている人たちは自分が向き合っていることとはどこかで衝撃的な出会いがあって、単純に「好きだから」以上のなにかがあってそれとかかずらわって生きているものだ。別のいい方をすればその人なりにその出会いを大切にしているだけのことだ。それが他人にとって面倒なことだったり、珍しいことだったりするのはそもそも当たり前のことだ。簡単で一般的なことを大切にしながら生きている人もたくさんいるだろうが、僕はそういう人生を送っていない。だからこそ取材したりするんでしょ。というわけで前述のような質問をする人にはいつも逆に「聞いてどうする?」とあわれみを感じつつ、さらっと「それは出会ったからです」と答えるようにしている。これ以上でも以下でもないから。   (12 February, 2003)

 

ほんとに合理的なのか?
だれがそう言ったんだろう、この国の国民性=合理的。新しい建築の設計理念やボロいけども手で開け閉めする電車のドアなど、何もかも過剰な日本に比べればうなずける部分は非常に多くて納得することが多かったことは確かだ。しかし待てよ、先入観がそうさせていたのかも、近頃よく思う。
最近、電車の検札がきびしい。多い時にはホームの入り口で拝見、ホームで拝見、車内で拝見。たかだか五分の距離だ。何を考えてるんだろう?全然理にかなってないぞ。ん?「理にかなう」の「理」とはそもそもなんだろう。こういう時に国語辞典がないのが外国暮らしっぽいが、ともかく、「理」とは多くの人にとって整然と、かつ澱みなく、時には賞賛を集めるほど美しい様子でモノゴトが滞りなくおさまっている、もしくはおさまってゆく状態を指しているとするなら、「合理的」とはそういう状態に合致した様子、ということになる。それではそういうメガネで日常生活を追っかけてみよう。まずは朝の駅。出勤のサラリーマンや学生など「多くの人」がいる。窓口は二つだ。自販機は一台。なぜか空いている自販機へ。学生なのでそれに該当するボタンを押す。するとしばらくして「その切符は窓口で買ってくれ」旨の表示が出る。たしかに学生であるかどうかを機械は判断できないから当然と思うがそれなら該当するボタンを用意しておくなよ!とても「整然」とはいい難い。で、窓口の行列へ。切符程度の小額でもカード決済は一般的だが額の大小にかかわらず手続きは同じだからカードの認証を待ってサインして‥おっ、次の人は小銭を持ってるぞ、おつりをシンプルにするために端数を探してるな、おや、駅員がうまく計算できないぞ、おつりを間違えたようだ、逆効果だったようだな、今度はカードだ、認証できないカードか?なんかもめだしたぞ、しかしみんな定期ないの?みたいな人ばっかりなんだけど‥という間に電車が到着。発車〜。いらだちとため息のざわめき。なにかおかしいぞ?と思わないんだろうか。ひとしきり文句を言えばか気分が解消するのか、激昂する人も。労働党政権で労働者の国だから働く場所を奪ってしまう自販機が普及しないのは「理」にかなってると思うが、そうかと言ってその労働を効率良く、つまり「とどこおりなく」遂行しようという姿勢は微塵も感じられない。なにも駅窓に限ったことではない。スーパーのレジでも図書館でも大学でもなにかしら「手続き」が発生する所ではどこもこの有り様だ‥と、ここまで書いて先ほどの「理」の定義が「効率的」という一面を包含していることに気付いた。効率的、つまり「整然と澱みなく、滞りない」様子のことだ。前述の「理」の定義から「効率的」の部分を除いて再定義してみると「多くの人にとってモノゴトがおさまっている状態」となる。これなら話はわかる。切符を買って電車に乗る、お金を払って正しいおつりをもらう、カードの認証はきっちりする、どれも破綻してるわけではない。「おさまって」いる。ただ「効率」ということに関して絶望的に無関心なのだ。そもそも「合理的」が「効率的」を必然的に内包しているものと考えたこと(というよりも普通はそう考えると思うが)が落胆の原因だったのだろうか。モノゴトがおさまってれば「合理的」。たしかに「理」とかいて「おさむ」という名前の人がいるな。「合理的」と「効率的」を必然一体のものとして考えてしまったのは僕の性なのか日本人の国民性なのか、さて。   (30 January, 2003)

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