工芸の現在性 奥野憲一氏(GRASS AND ART誌編集長)による
明治ー昭和期工芸の俯瞰
GLASS AND ART No.21 1998「解説 工芸の現在性 奥野憲一」 より一部抜粋
「工芸」という言葉から受けるイメージの板底には、壷や鉢や茶碗や花器などに代表される「用途あるもの」を通
して得た、私たちの抜き難い経験の蓄積がある。しかし現在の工芸は、「かつて見た工芸」から遠く離れ、大きく変容している。これまでの経験を基層とした「工芸」観によつて、現在の工芸を読み解くことは不可能である。以下の論考を通
して、この大きく変容する工芸の現在的造形論理の第一歩を踏み出すと同時に、「工芸」の変容を形成するに至つた時代的必然を考えていきたい。
工芸のエポック
「現在」に至る日本の工芸史のなかに、日本の「工芸」に大きな衝撃を与えた三つの大きなエポックがある。第一のエポックは、明治政府の海外の万国博覧会への参加。これはヨーロッパへの視線に貫かれている。第二のエポックは1964(S39)年、東京オリンピックの年に開かれた「現代国際陶芸展」。そして第三は、1978(S53)年に開かれた「世界クラフト会議京都大会(WCC)である。後者二つは、主にアメリカにその眼が向いている。
明治期の「工芸」
日本は明治元年、1868年に「近代」ヘの一頁を開く。それまで経済的基盤を支えてきた藩の保護 を失い、工芸、特に淘磁器は、自助努力による販路の維持と拡大を強いられるが、そのことは必然的に、輸出を目的とする「工芸」制作を促すこととなつた。貿易振輿という明治政府の国策とも相挨つて日本の「工芸」品は、1873年(M6)のウイーン万博に参加出品する運ぴとなる。その目的
は、
@優秀で精巧な製品を外国に知らせ、日本を認識させること、
A外国の出品物から「物産と学芸の精妙とを看取し、機械妙用の工芸」を学ぶこと、
B学芸の進歩に必要な博物館の設置を準備すること、
C輪出の振輿増進の基礎をつくること、
D諸外国の有名物産の性質や価格を調査するとともに、諸外国が日本に何を求めているのか探索すること−
であつた。注目すべきは、この時のウイーンからの出品規定−−つまりは西洋美術概念による美術品分類−−に従い、美術と工芸の明確な分離が行われたことである。このとき行われた美術と工芸分離ないし区別は、やがて1900
(M33)年のパリ万博時の臨時副総裁・九鬼隆一による以下の発言、「西洋においては、美術を純正美術と応用美術二科に分かち、甲には絵画、彫刻、建築をいれ、乙には金工、陶磁、織物等総て実用と美術を交うものを入る。則ち真の美術家と応用美術家とは全く別
人にして、社会の品位自ら差等あり」を導くこととなる。「応用美術」=「工芸」が、明らかに下位に位置づけるべき美術分野として認識されているさまを、ここから見てとることができる。こうしてパリ万博出品区分は、
第一部美術「日本画、西洋面、彫刻品、建築図」、第十五部各種工芸「陶磁器類、漆器及蒔絵類、 屏風類、七宝、金銀器並金属器」とされ、「工芸」は「美術」から除外された。こうした流れの
中、1907(M40)年の第一回文部省美術展覧会(文展)では「出品は、日本画、西洋画及び彫刻の三科」に絞られ、工芸部門は設置されなかった。この後、官展への「工芸」部門の設置は関係者の悲願となり、10年後の1927(S2)年第八回帝展に至つてようやく、その顧いは実現する。ちなみに、岩田藤七が帝展工芸部で特選を受賞するのは、1928(S3、第九回)年のことである。世界史的にはこの時期、第一次世界大戦、世界恐慌などに代表されるような近代から現代へと至る大きな変革期をむかえている。しかし日本における社会的、文化的断層は、これよりやや遅れて、第二次世界大戦の終結(1945、S20年)以降を現代と考えるのが妥当だろう。その第二次大戦終結の翌
年(1946)、第一回日本美術展覧会(日展)が聞催されたその同じ年に、「工芸」の世界できわめて重要な出来事が起こる。京都で八木一夫、山田光らが「青年作陶家集囲」を結成、二年後の
1948(S23)年には、鈴木治を加えて「走泥社」が結成されたのである。また1947(S22)年には、宇野三吾を中心に「四耕会」が結成されている。「四耕会」が土を素材にして「純正美術」としての、つまり、西洋美術概念での彫刻を作ろうとしたのに対し、「走泥社」は、土という素材が
必然的にはらむ表現上の独特な制約と格闘し、それを封じ込め表現する方法を見い出そうとしたといえる。つまりそこでは、土という素材でしか造形できない表現にまで素材との関係を緊密にする
ことが目指されたのだ。一方、「四耕会」はこの後、1957(S32)年にその活動を停止する。その背景には「四耕会」の、「走泥社」の同人達とは決定的に異なる素材との関わり方から生じた造形と論理との矛盾があったといえるだろう。なお、京都で起こつた陶芸をめぐる新しい動きは、大学
にも及んでいる。京都市立芸術大学では、1949(S24)年に辻晋堂が、1950(S25)年には富本憲吉が教授となる。さらにモダンアート協会や走泥社に参加していた藤本能道も、1956(S31)年
に京都芸大教授となる。1954(S29)年に京都芸大に入学した柳原睦夫、森野泰明、富永理吉らは、こうした教授たちのもとで学生生活を送つたのである(なお、藤本はこののち、1961(S36)
年には東京芸術大学教授に招かれ、京都を離れる画彼自身の作品も時を同じくして、オブジェから赤絵、色絵磁器へと変化する。藤本の作風はこの後も、東京芸大で陶芸を学ぶ者たちに多大な影響
を与えることとなり、現在に及んでいる)。1950(S25)年には八木一夫の作品がM○MAに展示され、またイサム・ノグチが来日するなど、
大学の外でも陶芸に関する活発な展開が見られる。これらの出来事はおそらく、陶芸を志す若者た ちにも大きな影響を与えたことだろう。また忘れてならないのは、1953(S28)年に電動ロクロが発売になつていることである。1961年にはシンポ工業・無段変速RK‐1型が発売になり、また、
電気窯、ガス窯の改臭、小型化とその普及はこの時期、格段に進む。また流通 革命とも呼ぶべき時 代背景が追い風となつて、土や材料も産地外での入手が容易となった。陶芸をめぐるこうした周辺
環境の変化に応じて、小規模の設備でも陶芸に取り組むことが可能となり、この結果 、陶芸を志す人達が急増した。一方で明治初期には二十基あつた京都五条坂の共同登り窯の最後の一つが、
1961(S36)年に閉鎖され、1965(S40)年頃には、ほとんどの淘磁器製作従事者が五条坂から山科、清水団地へと移転した。この時期はまた、日本の現代美術全般
が、欧米からの新たな衝撃にみまわれた時期でもあつた。1956(S31)年、東京・高島屋で「世界・今日の美術展」が開催され、アンフオルメルという新しい美術のコンセプトが日本ではじめて、本格的に紹介されたのである。翌年には、これらアンフオルメルの代表的な作家であるタピエ、マチユー、今井俊満らが来日し、アンフオルメル・ショック
と呼ばれるほどの大きな影響を与えた。このアンフオルメル・ショックはやがて、1963(S38)年 の「ハイレッドセンター」結成から68(S43)年の千円札事件へと至る、美術における一連の反芸術的志向へと展開していく。
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