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まなざしの彼方に  

‥日本のいわゆる「前衛工芸」は国際的な舞台でも高く評価されているが、それらの評価 が、絵画・彫刻 を主流とする欧米の「現代美術」のフィールドで、他のメディアと対等 な次元にあるとはいいがたい。あくまでも素林別ないしメディア別の分野にかぎっての評 価なのであり、「前衛工芸」は「現代美術」に対して二次的でマイナーな下位領域に置か れている。というのも、西洋の基準からすれば、単に工芸品から実用性を排しただけで は、「芸術」としての価値を認めることが困難だからだ。西洋人たちは言うだろう、それ らは素材や技法が目について、作者の芸術的意図が見えてこない場合が多い、だか ら”craft”のレッテルを貼るしかないと。あるいはまたこうも言うだろう、素材や技術 のプロセスの重視は主体の自由を損ない、装飾性は表現内容を薄め、実用性は審美的な純 粋性を濁らせると。いや、そう言うのは西洋の人々だけではない。わが国の美術関係者の 多くもそのような芸術観のもとにある。例えば、現代美術作品の評価において、「工芸 的」とか「装飾的」とかいう形容は、多くの場合、「表現内容の奥行きの無さ」や「技術 的細部への拘泥」を示唆する否定的意味合いで用いられる。ー中略ーわれわれの芸術を見 る物差しは、今もほとんど欧米のそれなのである。そしてこの物差しで測られるかぎり、 アジアやアフリカなどの非西洋圏の造形と同様に、絵画・彫刻以外のメディアや「工芸」 は、「芸術」の辺境に置かれるだろう。

「小清水漸・栗本夏樹展西宮市大谷記念美術館1994図録「神のまだ死んでいない日 に一栗本夏樹の漆造形一井上明彦」より抜粋」

以上は主に観賞者の側に立った工芸観についての明らかな事実だが、現代の工芸が置かれ ている立場を美術という広がりの中で俯瞰的に把握できていない事実が作家側に潜在しが ちなことを忘れてはいけない。工芸作家にとって素材との関りは不可避だが、何らかの他 己や私小説的な自己の内面世界を表象するような表現を造形の可能性の名のもとにくり返 していても工芸にアートとしての未来はないだろう。特に東アジア固有と言っても差し支 えない漆の世界においては。
 液体素材である漆にとって表現の態が立体であるか平面であるかは根本的な問題ではな い。また工芸であるか彫刻であるか、といったカテゴライズが重要なのでもなく、それが 果たして作家自身の工芸観を自律的に表しうるパラダイムであるかどうかが問われるべき である。例えば、漆塗りという事象について考えるとき、その最小的、かつ原泉的な要素 とは「塗る」ことである。ここで「塗る」という行為について思考をはじめるなら「塗 る」ことにまつわる様々な事象が浮かび上がってくるだろう。「塗る」ことによって明ら かになる主体と客体の関係、新たな輪郭の出現、特別な意味を示す記号化の作用などにつ いて考察しその結果を立体だけでなく、例えば写真やビデオで示すことも「工芸家の表 現」として認知されてもいいはずであり、もしその作品が人々に新鮮な感動を与え、ひい ては普段何げなく見過ごしている「塗る」という行為の本質に人々が気づくとしたら、そ の活動はアートと呼べるはずである。塗るとはどういうことか、その行為に託す人間の思 いとはどんなものか、塗ることで何が変化するのか、そういった目に見えない心の部分 に’まなざし’を注ぐような表現こそが、漆の世界がなおアートの現場であり続けるため には必要である。ただ単に造形や技法の可能性を追求することではなく、そうした’まなざし’の延長上にこそ漆の表現は自律してゆくべきではないだろうか。

土岐謙次

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