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98/5/13 見方・見られ方

笠原美智子「ヌードのポリティクス」-女性写真家の仕事- (筑摩書房)より
ヴィジュアル・リプリゼンテーションにおける性差を考えるとき、恰好の写 真集がある。 ジュディ・データーと彼女の当時の夫であったジャック・ウェルポットの共著 『ウィメン・アンド・アザ−・ヴィジョンズ』(1975年)である。この本には女性のライフ スタイルが著しく多様化した、1970年代の変わりゆくアメリカ女性の肖像が収められている。 データーとウェルポットは、ときに同じ女性を被写体にして撮影し、彼らの方法論の違いを 明確にしている。端的に言ってしまうなら、ウェルポットの関心が、女性達の身体を主題と していかに造形的に高度な写真を創るかに、より多くあるのに対し、データーは被写 体の内面世界を描くのにより関心をもっているということだろう。ウェルポットのカメラの前で被写 体 は自分自身であるというよりは、自分を素材としてなげだし、自分自身を演じている。データー の写真にみる被写体の表情は、彼女たち自身の内部からほとばしる自意識の端々を見せている。 特にその違いはヌード写真に顕著である。それは男性写真家と女性写 真家に対する、被写体で ある女性たちの向き合い方の違いでもあるだろうし、その写 真家の写真に対する動機の違いで もあろう。ウェルポットは、ケネス・クラーク卿が定義した有名なヌードの伝統的方法論を受 け継いでいる。すなわち、「意識的であれ、無意識的であれ、写真家がヌードを撮るのは裸の 身体そのものを撮るのではなく、裸とはこうあるべきという、アーティストの考えを明らかに するためである。」ウェルポットが写真で表したのは、被写体自身であるよりも彼自身のヴィ ジョンである。一方、現代に生きる女性としての共感に基ずくデーターの作品は、被写 体が無 防備に晒す彼女達の内面世界の葛藤の瞬間を捉える。「彼女たちは自分の意識にさえ上らない 何かを晒すことによって、カメラの前に自分自身を投げ出すのです」とデーターは言う。ウェル ポットが被写体の外見を使って写真を構成することにより彼自身のヴィジョンを表わすのに対し、 データーは被写体自身に語らせることによって、彼女自身のヴィジョンを提出している。  こうした方法論の違いを単純に一般的な性差によるものとすることは、もちろん、できない。 ただ、女性が長い間見られる対象として存在してきたのは事実である。女性の身体の線や肌の 質感、その外見的造形美に主たる興味を置いて、自然や神秘などのアナロジーとして多くの女性 像が描かれてきた歴史を考えれば、カメラのこちら側にあって視線を投げかける〈女〉が、視線 を返す被写体の全人格や、その描き方に敏感にならざるをえないのも理解できる。(p.100)

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